つないだ手 -1-





















「いいか?たまには負けてあげるんだ」





 三郎太は驚いて父を見つめ返した。
 父は彼に目線を合わせるためにかがみ込んでいる。久しぶりに見つめる父の顔にはしわが増えていた。
 御所からそのまま屋敷に戻ってきたのだろう。父、中納言ちゅうなごん藤原頼基ふじわらのよりもとは漆黒のほう、すその広い白袴しろきはかまに冠を身につけていた。後ろから下襲したがさねきょが六尺ばかり伸びている。
 父に呼ばれ母屋にあたる寝殿に来た三郎太は驚く。
 なにを言いたいのだろう。
「これから、お主は今までのようにいつでも実力で勝つことはできなくなる。元服すればなおのこと、位階が上の者を立て続けなければならない。悔しいだろうが、そうしなければ傍流の私達は生き残れないのだ」
 父は心底悔しそうな表情をしている。
 まだ十二歳になったばかりの三郎太から見れば父は大きく、そして強く感じられた。だがそんな父も御所に上がれば肩身の狭い思いをしているのだろうか。
 この表情を見ればわかる。
 三郎太は拳を強く握った。
「おいで」
 御簾みすの奥から父が連れてきたのは自分と同じ年くらいの少年だった。
 腰まである長くつややかな髪を二つに分け耳の辺りで結ってある。みづらと呼ばれる貴族の少年がする髪型だ。
 赤味がかった紫色の飾りが胸元やそで口についた淡縹あさはなだ水干すいかんに紺色の袴を身につけている。
 形そのものは三郎太が着ているものと大差がない。
 だが生地の色つや、仕立ての丁寧さから上等なものだというのはわかる。
 まるで染める前の絹のような真っ白な肌、肌とは対照的な黒目がちの大きな瞳。整った眉、小さな鼻、唇は紅を履いたように紅かった。
 着ている物や髪型は確かに少年のものだったが、三郎太は納得がいかなかった。
 父の後ろで不安そうに眉根を寄せ、上目使いで自分を見てくる瞳のせいだろうか。
 この子は俺と同じではない。
 直感的にそう感じた。
 父は三郎太の顔が険しくなったのを見逃さなかった。そしてかすかに微笑をすると三郎太の手を取った。
「お主の祖父家正公の兄君である、家久公の御嫡孫、お隣の内大臣なだいじん家孝公の三の姫だ」
 女の子‥‥‥三郎太は父が握らせた二人の手をぼんやりと見つめていた。
 今まで女の子に会ったことはなかった。
 男と女は小さい頃はほとんど分け隔てなく育てられるが、三郎太には姉妹や女の乳母子めのとごや子供の侍女等がいなかったため、ほとんど女の子と接することがなかったのだ。
「この子の遊び相手になるのだ」
「そんな‥‥‥」
 お姫様の遊び相手。
 冗談じゃない。
 こんなひ弱そうな子を連れていたら自由に飛び回れなくなる。それとも父は自分が今まで隠れて牛を乗り回したり、市で暴れたり、庭で大木のてっぺんまでよじ登ったりしているのを知って足かせとなるようにこのお姫様の相手をしろというのだろうか。
 あり得る。
「内大臣殿、直々のお願いでな。姫君に少しの間でいいから外の世界を体験させて欲しいというのだ。頼むぞ三郎太」
 返事をする前に父は部屋から出ていってしまった。よっぽど後ろから追いかけていってあの長い、後ろにひきずっている裾をふんずけてやろうかと思ったがやめた。
 お隣の殿も父上も自分の意見等聞こうともしない。
 これは命令なのだ。
 この姫君の遊び相手になり、先程父が言っていた『負けること』の予習をしなければならないのだ。
 泣きたくなった。‥‥‥‥そんなこと言われなくてもわかっている。
 京師みやこが平城京から平安京に移り早百年あまり、『藤原氏』と言えど権力を握る位置に一番近い家柄と俺達のような上級貴族の端っこの家柄とでは、大きな隔たりがるということを。
 それは位階にも現れる。
 今、手を握り不思議そうに自分を見つめてくる少女の父親は現在内大臣。単純に考えて帝を除いて上から四番目に偉いのだ。
 それに比べて俺の父は中納言。
 御所での偉い順に記すと帝、太政大臣だじょうだいじん、左大臣、右大臣、内大臣、大納言だいなごん中納言ちゅうなごんと続いていくのだが、これだけ見れば内大臣と中納言が違うとは思えないだろう。
 けれど大納言、中納言は複数の人間がつくことができるのだ。
 父の他に中納言は六名、大納言は五名が任ぜられている。
 隆基兄上の話ではその中納言の中でも父は一番年を取っており、長年近衛中将このえちゅうじょうを勤めあげた実績からやっと中納言に昇進させてもらえた。というのが実情なのだという。
 年齢的にも内大臣殿は四〇前、父はもう六〇に手が届く。内大臣殿はこれからも出世するだろう。摂政、関白だって夢じゃない。だが父は無理だ。もう昇進は期待できない。
 子供は基本的に父親の位階より上には行けない。と、なれば父の位が中納言で上に二人の兄がいる俺はどう頑張っても参議さんぎ、少納言より上にはなれないだろう。
 最悪の場合、御所に殿上でんじょうすることも許されず、なんとか国司になって任国に降るかそれか国司になるための奏上文そうじょうぶんを一生書き続けるしかないのだ。
 始める前からもう限界が見えている。
 俺はいくら勉強しても、弓や蹴鞠けまりが上手くなっても家柄という壁に阻まれて身動きできないのだ。年を取り、四〇、五〇になっても出世はできず、家柄が良いという理由だけでとんとん拍子に出世していく殿上人の子息達を恨めしそうに見つめ続けるしかない。
 ならば、子供の時くらいお山の大将になったって良いだろう?
 今だけなのだ。
 誰に頭を下げることもなく自由に走りまわることが許されるのは。
「‥‥‥‥姫は、‥‥‥‥このような、服に初めて着替えた」
 ずっと三郎太が黙っているので三の姫は不安になったのだろう。たどたどしく語る。
 なぜか自分のことを姫と呼ぶ。
 それは、このように間違った言葉使いをしても誰も注意をしないということ‥‥‥‥大切にされていても親身になってくれる者はいないということなのだろうか。
「立って歩くのは楽じゃ」
 女性は立って移動しない。たいていの場合立ち膝で移動する。三の姫はまだ裳儀もぎという女性の成人式を行っていないのに、普段は大人と同じように立ち膝で移動するように教育を受けているのだろう。
 はにかむように微笑み、自分を見つめてくる。
 三郎太は姫の大きな黒い瞳を見つめた。
 首を振るとつないでないほうの手で頬をぴしぴし叩いた。
 ――― 俺はましなほうだ。
 目の前の姫はこれから先、ずっとずっと日の光を全身に浴びることはないのだ。薄暗い屋敷の奥でこうの煙に包まれて、感情を押し殺して生きなければならないのだ。
 ‥‥‥‥母のように。
 母の口癖は『女が人前で感情をあらわにするのはみっともない』だ。
 だから館から歓声が聞こえるということは滅多にない。母も母に仕える女房達もいつも穏やかで無表情だ。父はそんな家を陰気だと嫌い、他の妻のもとに入り浸っている。
 父の無情を恨む様子を母はこれっぽっちも見せないが、きっと心の中は嵐がうず巻いているだろう。
 泣くことも怒ることも、笑うことも楽しむことも極力押さえなければならない人生をこの子は将来送らなければならないのだ。
 だったらせめて子供の頃に楽しい思い出を作ってやらなきゃ。
 突然頬を叩き出した三郎太を三の姫はきょとんと見つめている。
「なぜ叩くのじゃ?」
「お前もやってみろよ。これは今から違う自分になるぞっていう簡単なまじないなんだ」
「うん」
 ぺんぺんと姫は小さな手で自分の頬を叩いた。すぐに泣きそうな表情になる。
「痛いだろ? その痛みが引くと違う自分になるんだ。ほら、いくぞ!」
 三郎太は強引に姫の手を引っ張った。適当にごまかすために言ったのにこの子はあっさりと信じ真面目に実行する。
 気に入った。
 とりあえずは俺のお気に入りの場所を全部案内しよう。
 館を出て門に来たところでもう姫は息を切らしていた。でも表情は明るい。
 見上げれば初夏の日差しが目に眩しく、空は高く澄んでいた。
「姫は姫じゃなくなったかえ?」
 万寿丸が不安そうに三郎太を見つめて聞いてくる。
「もう、俺の弟分さ」
「弟分?」
「そ、もうお姫様じゃないってこと」
「姫には戻れないのか?」
 心底困った表情で姫は頬に両手を当てた。
 その表情を見て三郎太は吹き出した。
「そんなのもう一度叩けば元通りだよ。言ったろ? 簡単なまじないなんだ」
「うん。では、参ろう」
 二人はもう一度手を握ると今度はゆっくりと歩きはじめた。
 まず『姫』って言うのをなんとかしなければ駄目だ。口調は仕方ないとしても女の子だとわかるのはまずい。
「お前、普段はなんて呼ばれてるんだ?」
「姫か? 姫とか三の君とか末の姫とかじゃ」
 三郎太はため息をついた。
 一般的に貴族は名前をほとんど使わない。だいたいの人は役職や故郷の名や呼び名・あだ名で呼ばれる。特に女性の場合は本名を知っているのは両親と夫くらいだろう。
 三郎太は少し考えていたがすぐうなずく。
「よし、これからお前の名は万寿丸まんじゅまるだ」
「万寿丸?」
「男の格好してるのに姫って呼ぶわけにはいかないだろ?」
 万寿丸とはよく三男につけられる幼名だ。
 母は三郎太の幼名ようみょうを万寿丸にしたいと父に言ったのだが、何番目かわからないから嫌だとすげなく断られたそうだ。
 俺も姫も同じ三番目。ならば万寿丸はうってつけだ。
「万年も寿ひさしかれという意味だ。まずはいちに連れてってやるよ。来い、万寿丸」
「‥‥‥」
 きょとんと見つめ返す三の姫の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「お前のことだよ。‥‥‥いいか、俺が呼んだら返事する。あと俺のことは三郎太と呼べばいいからな。万寿丸」
「はい、三郎太」
「俺から離れるなよ、袖でもつかんでろ。離れそうになったら俺の名前を大声で叫べ。それでもはぐれたら泣かずに何度でも俺の名を呼ぶんだ。必ず見つけてやる」
「うん」
 三の姫、いや万寿丸はうなずくと、顔を強張らせ空いた手で三郎太の片袖をぎゅっと握った。そんなに強く握ったらしわになる、とも思ったが三郎太は黙っていることにした。
 きっと生まれて始めての外出なのだ。緊張しても無理はない。
 貴族の女性は頻繁に外出などしない。御所や貴族に仕える者が休みをもらい帰宅する場合や、親しい友人を訪ねたり、寺に法話を聞きに行く以外はほとんど家の中にいる。あとは賀茂の祭見物くらいだろうか。
 京師は決して安全な街ではない。強盗、火事、流行り病は多発している。一番警戒が厳重なはずの、帝がいらせられる御所の奥深くに強盗が入ったこともある。
 京師に住むほとんどの者は貧しい生活を強いられていた。
 道には死体があふれ、家を持つことができず河原に住む者も多い。
 貧しい者の中には手っ取り早く稼ごうと上等な服を着た子供をさらったり、道行く貴人の乗った牛車ぎっしゃを襲う者もいる。
 だから貴族の姫君が外出するということになれば大勢の警護の者が付き従わなければ危険なのだ。
 女性が人前に姿を見せるのはしたないという考え方と、外出するのは危険だということから女性はほとんど外出をしない。
 三郎太はちらりと後ろを振り返る。飾りのついていない質素な水干を着た男が二人、さらにその男達から離れたところに太刀を身につけた武士が二人いる。
 水干を着た男達は三郎太の家人だが、後ろにいる武士もののふ達は内大臣がつかわした万寿丸の護衛だろう。
 三郎太は万寿丸の手をぽんぽんと叩くと微笑んだ。
「大丈夫だよ。市はそんな物騒なところじゃないから」
 ウソだ。
 でもこうでも言わないと万寿丸の不安は消えないだろう。
「三郎太!」
「おお」
 三郎太は軽く手を上げる。
 遠くから叫ぶのは三郎太の遊び仲間だった盛義だ。盛義は内大臣家に母親と共に住み込みで働いている。三郎太より一つ年若だがもう屋敷の仕事を手伝っていた。
 そのため最近ではほとんど遊べなくなっている。
「今日はどこにお使いなんだ?」
「三条のげん大納言だいなごん家だ。ほらお前らにもやるよ」
 そう言うと盛義は懐から竹の葉で包んだかたまりを取り出した。開くと中から餅が出てきた。
「食え」
 三郎太はひとつつかむとぽいと口の中に入れた。つきたてなのだろう餅はほのかに温かく柔らかい。
「美味いな」
「だろ? いろんなとこに使いに行くけど源大納言さまんとこの餅が一番美味い。ほらちび助、お前も食え」
 万寿丸は小さく首を振ると三郎太の背後に隠れるようにした。
「悪いな、盛義。こいつ人見知りが激しいんだ」
 そう言うと万寿丸の頭をぽんと叩く。
「名は万寿丸。俺のはとこなんだ」
 正確には祖父の弟のひ孫だからはとこではないのだが説明するのは面倒くさい。それに万寿丸が女の子で、盛義の主の娘だと知られるのはもっとまずい。
「おれは盛義。内大臣様のとこで働いてる。三郎太は態度はでかいが面倒見の良い奴だ。離れないようにくっついてろ」
「わかった」
 盛義は少し開いた万寿丸の口にさっと餅を突っ込むと竹の葉の包みを懐にしまった。顔には少し意地悪そうな笑みが浮かんでいる。万寿丸はなんとか餅を飲み込むと涙目で盛義を睨んだ。
「なかなか負けん気が強いじゃないか」
 万寿丸は頬を膨らました。
「盛義、あんまりからかうなよ」
「わかってるよ。じゃな、三郎太、万寿丸」
「おお、また暇ができたら遊ぼうぜ」
「暇ができたらな」
 盛義は苦笑してそう言うと突然走り出した。三郎太と盛義、二人とももう盛義に暇ができないのは知っていた。
 盛義は身体はまだ子供だがもう扱いは大人なのだ。屋敷に居させてもらうためには働いて役に立つところ見せなければならない。
 その証拠に盛義の着ている服は直垂ひたたれと呼ばれる服で水干ではない。みづらを解き、髪を切り烏帽子えぼしと呼ばれる黒塗りの高い帽子を身につけた者はもう子供ではないのだ。
 それまでは子供としての仕事もあった。主に手紙や品物の配達だが、盛義は暇を見つけては抜け出して遊んでいたのだ。
 だが、それはもうできない。
 もう子供ではないのだ
 。今までのように仕事を放り出して遊ぶことはできない。役立たずだからと内大臣邸を追い出されたら、親子とも生きられるかどうかわからないのだ。
 三郎太の遊び仲間達はほとんど下級貴族か庶民だ。そのため働くことができればすぐ大人の扱いになる。子供のうちから働いていて抜け出して遊んでいる者もいる。
 だから仲間の入れ替わりも激しい。
 仲間達は名前以外はほとんどなにも言わない。子供にも子供なりの暗黙の掟がある。三郎太にとって盛義は本当に気の合う遊び仲間だった。そのため自然とお互い悩みを打ち明けたり、助言しあったりした。だからその暗黙の了解を破って仕事のことを聞いた。しかし万寿丸の前で聞くことではなかったかもしれない。
 仕事や父親の位階等を聞けばいくら仲間といえど上下関係がおきる。それを防ぐため名前だけを最初は名乗る。名前以外を名乗る者は仲間にしない。そして上下関係は実力で作る。それが俺達の仲間の暗黙の掟だった。
 三郎太は隣の万寿丸を見つめた。
「これから俺の仲間に会ったら名前以外はなにも言うな。正体がばれるとまずいからな」
 細い肩をつかむと少し語気を強めた。
「それからどこに住んでるかとか、父親、母親、家族ののことも聞くな。聞かれても答えるな。いいか?」
 万寿丸は明らかに納得がいかないという表情をしている。
「どうしてじゃ?」
「俺達は遊ぶために集まってる。遊ぶのに必要のないことだろ」
「でも‥‥‥もし父上、母上がいらっしゃらないのなら姫‥‥‥万寿丸が助けて」
 肩をつかんでいた手に力が入る。
「!‥‥‥痛い!」
「うぬぼれるな。お前が助けるんじゃないだろ? お前の父親が助けるんだろ? 今まで仲間だった奴にそんなこと言われてみろ、誰だって怒るぞ」
「わからぬ。万寿丸にはなぜ怒るのかわからぬ」
 盛義の言う通り、案外この姫は気が強い。
「確かに貧しい奴だっている。だが遊ぶことができる奴はそれほど貧しくはないんだ。なんとか暮らしていけてる。だから助けは必要ない」
「よく、わからぬ」
 まだ納得がいかないという表情だ。
 言って聞かせるよりは見せたほうが早い。
「とりあえず、市に行こう。それからゆっくり説明してやるよ」
 これじゃ、遊び仲間なのか教え子なのか区別がつかない。
 だが三郎太は少し気分が良かった。
 今まで自分が三男で、末っ子だったため、いつでも格下扱い。物を知らない子供扱いされていた。仲間達はあくまで仲間であり自分とはたとえ年が離れていても同等だった。
 だから三郎太にとって万寿丸のような弟分(実際には女の子だから妹分だろうか)ができたのは初めてなのだ。ちょっとした優越感と自分が守らなければいけないという責任感を三郎太は初めて感じていた。










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